私がしたかった恋だった※ネタバレ有
先日、夫と映画を観た。
「花束みたいな恋をした」という、坂元裕二さんがシナリオ、脚本を手がけた作品だ。
カルテットや最高の離婚で、坂元裕二さんの紡ぐ言葉、せりふが、びっくりするほど自分にすんなり入って来て好きになってしまったので、初めてのオリジナル恋愛映画、観なくてはとずっと思っていた。夫を誘ったのは、特に理由もなく、有村架純が好きらしいので、一緒にチケットをとった、それだけだったけど、結果一緒に観て良かったなぁと思った。
最初、絹(有村架純)と麦(菅田将暉)ふたりの、それぞれの好きなこと、心動かされること、そして生きにくさを感じさせる小さなストーリーから始まった。偶然が重なって、終電を逃して、2人のストーリーが重なる。ひょんなことから、意気投合し、知り合った2人は、終電間際のファミレスで、偶然間違えて届けられたパフェが背中を押して恋人になった。
好きなことが一緒、感じることが似ている、使う言葉がすき。恋に落ちていく一つ一つの小さなストーリーが、むず痒いくらいに表現されていて良かった。身に覚えのある、胸の高鳴り、支えになる愛情、2人の気持ちのシンクロはまさに花束みたいに、尊い時間を作っていく。
観ながら、もともとそういう癖があり、主人公に自分を重ねてしまった。隣で有村架純の可愛い笑顔ににやけている夫と恋愛関係になった時ではなく、学生時代に長く好きだった人を追いかけていたときの記憶と重ねた。私が好きだと思ったものを、私以上に好きで、勧められたものはどれも自分の好みに合っていると思った。その相手とは、残念ながら私の完全なる一方的な想いだけで終わったのだけど、本当に小っ恥ずかしい言い方をすると「とても良い恋をさせてもらった」と思っている。
自分の少ない経験での憶測に過ぎないけど、自分とシンクロする相手とする恋愛というのは、きっととても心地よく、楽しく、気持ちがぐんぐん高まって、相手ごと自分も好きになっていくみたいな感じなのかな、と想像する。
映画の話に戻ると、そんな2人が生活を共にする中で少しずつすれ違っていく様子が描かれる。ふたつ、この物語でのキーワードで記憶に残ったものがあって、「はじまりは、終わりの始まり」と「音楽はモノラルじゃなくステレオ、右と左で違う音楽を聞いている」という言葉だ。
「はじまりは、終わりの始まり」
絹が心酔していたブログで書かれていた言葉。始まった恋が、どこへ向かっていくのか、少し不安そうにしていて、知らぬ間に姿を消してしらす丼を買いに行った麦を怒ったところが印象的だった。麦は2人分のしらす丼を買ってきたけど、絹は勝手にいなくならないでよと怒る。なんでもない、よくあるエピソードだけど、終わりを意識して不安な絹と、どこまでも無邪気に今に懸命な麦の、終わりの始まりのような、すれ違いに思えた。
「音楽はモノラルじゃなくステレオ」
麦と絹が、ファミレスでイヤホンを片方ずつして音楽を聴いていると、近くに座っていたおじさんが「音楽はステレオ、左右2つで一つの音楽だから、あなたたちは今違う音楽を聴いている」という高説を垂れはじめてしまう、というエピソードで出てくる。
そこから特に2人で音楽を聴くシーンもなく過ぎていくのだけれど、別れた後同じカフェで偶然遭遇するところでも、このエピソードが出てくる。同じ音楽を左右に分けてシェアする、それはすごく楽しいけれど、一つの同じものをシェアするとき、相手は自分と違うものを受け取っている、ということを忘れてはならない。そんなことの表出であったのだろうかと、映画を観終わった後に思ったりした。
この映画で描かれた、麦と絹の花束みたいな恋は、5年間をかけて少しずつ終わっていく。
麦がイラストで食っていくことに限界を感じて、就職して。生活をしていくために、絹も資格を取ってフリーターから定職へ。麦が忙しくする中で、2人の恋愛の要であった、音楽や文学、漫画などの共通の「すきなもの」は、2人の共通ではなくなっていく。
麦は無邪気に絹との現状維持を懸命に考えて仕事に邁進する中で、生活の時間を削り、心の余裕を削っていく。ガスタンクに面白さを感じて映画まで作っていた麦が、パズドラしかできなくなってしまったことに、いろんな悲しみが詰まっていて胸にグッときた。絹は絹で、環境の変化の中で変わっていく麦を受け止めきれずにいた。相談せずに、簿記の資格をとって就いた仕事からイベント会社の契約社員に転職した絹は、もうそんな自分の決断が、麦に受け入れられないのが、心のどこかで分かっていたのではないだろうか。
付き合い始めに、就活で圧迫面接を受け続けていた絹に、麦は「その面接官は偉いのかもしれないけど、今村夏子のピクニックを読んでも何にも思わないかわいそうな人だ」と励ました。月日が経って、仕事で理不尽な扱いを受けたという麦に、絹はその時とおんなじ言葉をかけた。でももう届かなかった。もうあの時に自分を救ってくれた言葉は、救ってくれた人に届かなくなってしまった。なんて悲しいシーンだろうと思った。
2人がうまくいかなくなってから、麦がやたら結婚を持ち出すようになる。麦は、現状維持のために仕事を頑張っているはずなのに、そのせいでか絹とうまくいかなくなっていることに焦りを感じたのか、軌道修正の手段のように結婚を持ち出したように見えた。それが、きっと、絹にとっては「思っていたのとは違う」結婚の見え方だったのだと思う。絹は「軌道修正のための結婚」に「恋の終わり」を見たのだろう。そして恋はクライマックスへと近づいていく。
2人の恋人として最後の日の夜の描き方は、本当に白眉だった。共通の友人の結婚式の後、二次会にはいかずに、ノリで観覧車に乗るふたり。麦は夜景を見るけど、絹は結婚式の引き出物を見る、同じものに乗っているけど、もう違うものを見ている。絹が「わたし、夜景とか見ても、キレー!って思えない」と言うので、もしかしたら、もともと同じところから違うものを見ていたのかもしれない。それでも2人は観覧車の中で笑い合うのだ。カラオケで、2人が付き合う前にも歌ったキノコ帝国の「クロノスタシス」を肩を組んで歌う。好きなものが似た2人の、シンクロした日々の反芻のように見えた。そうして、2人の恋が始まったファミレスで別れ話を始める。
家具の分配や飼っていた猫のこと、別れる前提で話を進める絹に、麦は「別れたくない、結婚しよう。あの頃みたいな恋愛感情がなくなっても、家庭を築いてやっていこう」と言う。そこに、近くの席へ、いつの日かの絹と麦のような、これから恋が始まりそうな2人が座る。偶然お揃いのスニーカー、交換する小説、同じ音楽の趣味。楽しそうな2人を見て、絹は店を飛び出す。もうあそこに戻れない、一緒のイヤホンで同じ音楽を聴いていたはずなのに、全然別の音楽だったような悲しみが込み上げてくる。目の前で「現状維持の手段としての結婚」を提示されて、いつかはじまったものが、すでに終わっていたことをまざまざと感じる残酷さがあった。
そうして、2人は部屋を出るまで穏やかに別れの準備をし、終わっていく。
後日、カフェで偶然居合わせた後は会話をすることもなく、ノールックで手を振り、帰宅後に少し反芻して、ドライフラワーみたいな綺麗な感傷にひたる。
綺麗なだけではない、ハッピーエンドのその先、みたいなお話だった。私は、きっと学生時代に好きだったあの人と、こんな恋をしたかったのだろう。同じイヤホンで同じ音楽を聴くような、2人でシンクロし合えることに幸せを感じるような、小説を交換しあったり偶然おんなじスニーカーを履いているような、そんな恋がしたかった。終わった後も、ドライフラワーのように、生活の中でふとした時に安らぎや安堵を与えてくれるような。
しかし残念ながら、私は好きな人とシンクロする恋愛を経ることなく、あまりシンクロしない夫と恋愛し、結婚という選択肢を選んだ。正直に言うと、シンクロするかと思って「ミシェルゴンドリー展」に初デートで行ったのだが、私が好きなのはダフトパンクのMVで、夫が好きだったのは映画「エターナルサンシャイン」だったので、シンクロはしていなかった。そのあと、私は浅草のホッピー通りでホッピーを飲んだのが楽しくて、いい感じだと思って次のデートに誘ったのだが、夫はこんなに豪快にホッピーを飲むと言うことはきっと恋愛ではないのだろうと、油断してデートの誘いに乗ってしまったらしい。ロマンチックのかけらもない夫は、この映画を観て「別れるなんて意外だった!なんとかやっていけたんじゃないかなあ」などと、私がこんなに色んなことに染み入っているのに、毒にも薬にもならない感想を述べている。
物語から無理やり教訓を導き出すのは野暮なことだけど、ひとつだけ、映画と、隣で呑気な夫を見て思うのは、「お互いの変化を楽んでゆこう」と言うことだ。
夫と私は、同じものを見ても感じることは全然違うし、聴く音楽も、読む本も違う。もともとシンクロしていない私たちはコミュニケーションでシンクロできてない部分を補ってきたから、絹と麦がうまくやっていくよりももっと簡単なはずだ。これからも、相手の中に起こる変化やその兆しを面白がって、笑っていたい。
映画を観た後に、居酒屋を2軒はしごして、前に好きだった人の話とか、映画の解釈の話とか、付き合う前にデートした時の話を笑いながらした。
そんな相手が隣にいてくれる幸せを、なんだか噛み締めてしまった。
絹と麦の恋は、本当に花束みたいで、まぶしかった。
いやはや、良い映画だった。
スペアリブの角煮
ゴールデンウィーク、1週間分の食材をスーパーで買い出しする時に、絶対に買おうと思っていたものがあった。
それは、スペアリブ。骨付きのやつ。
骨のついた肉っていうのは美味いということがあらかじめ決まっているようなものだ。ただ、日常で買うのにはかなり勇気がいる代物だ。鶏の手羽元なんかは安くなっているとたくさん入っているのを買うけれど、あんなに脂がたっぷりで、ゴテゴテのお肉はなかなか手が伸びない。
でも、ゴールデンウィークくらいは、塊で骨付きのスペシャルなお肉を買ってもよいのでは?(他に何をするのでもないのだから)と思って、思い切った買い物をした。
あと、実を言うとスペアリブにはちょっとした思い出がある。社会人1年目にCMの制作をしていて、フランス人男性がフライパンでスペアリブのハーブ焼きを作るシーンというものを撮った時、スペアリブ未経験だった22歳の私は、その焼かれ姿(?)があまりにも魅力的で、初スペアリブを自分の手で調理したもので経験すると心のどこかで決めていたところがあった。あれから5年以上、そんなことはすっかり忘れていたのだけど、最近近所のスーパーがやたらスペアリブを仕入れるので思い出し、タイミングをうかがっていたのである。
そんなこんなで念願なスペアリブを購入したものの、具体的にどう調理していいかわからず、ただ骨がついているということは骨から良〜い出汁が出るということと思い込んでいる節があるため、cookpadで
スペアリブ 煮る
で検索した。上の方に出てきたスペアリブの角煮というのがピンときてしまった。
テラテラのスペアリブ、圧力鍋でホロホロになった骨付き肉、その最高な姿がありありと思い浮かんだ。
……
圧力鍋は便利だ。
原理はよくわからないけど圧力をかけると食べ物というものはこうも柔らかくなるのかと毎度感動してしまう。
最初に油とニンニクをフライパンで熱して、ニンニクが薫ってきたらスペアリブを両面焼き目をつける。
これだ〜〜〜!!!
私が恋焦がれたものが目の前に現れた。
焼き目がついたスペアリブの美しい姿、感動の再会。
あれはCMの撮影だったけど、あの時のフランス人モデルの「おいしそう…」って顔は演技じゃなかったと思う、多分。
そういえばあの時は三日三晩ほとんど寝ずに撮影していて、もはや意識朦朧としていたけど、スペアリブの美しさだけははっきりと覚えている。
さて、焼き目がついたら醤油、みりん、酒、はちみつ、少し五香粉を投入した圧力鍋に入れて、蓋を閉め、丁寧にじっくり圧力をかけていく。40分くらい高圧を保ったあと火を止めて冷める。
ここまできて私は、「スペアリブ」以外、夕飯のために何も用意していないことに気づいた。
焦って冷蔵庫を開けると、数日前に酔っ払ってニンニクとめんつゆに漬けておいたゆで卵があり、酔うと煮卵を作りがちな自分に100000回目の感謝をした。
あとは「角煮には青菜」主義であるので、野菜室でしなりかけていたほうれん草を茹でた。
圧力が完全に抜けたら、圧力鍋の蓋をあける。最後に煮汁を肉に絡めながら煮詰める。
汁がとろとろしてきたら完成!
完璧な見た目が誕生してしまった。
角煮、青菜、卵!
完璧すぎる。完璧な、私とスペアリブの再会。
ほろほろで、とろとろ。ビールがぐびぐびいけちゃう。
今まで忘れていたけど、今後半年に一回は謁見したい、スペアリブ。
……
そういえば、私が初めてスペアリブを見たCMは好評で、2年契約だったのがまだ延長されているらしい。
三日三晩も徹夜したのはその仕事くらいだったし、初めての大寝坊をかましたのもその仕事だったし、思いがけずナレーターになりかけた(クライアントの社長が最終ジャッジで却下したが…)のもその仕事だった。
CMの仕事を辞めて4年半になるけど、私の仕事がまだ残っているのは嬉しい。
私は多分、死に物狂いで働いたあの1年半の思い出を磨きながら(つまり美化させながら、大事にしながら)生ていくんだと思う。
炊き込みご飯と、具沢山の豚汁
ここしばらく、何かをじっくり考えたり感じたりする時間を、わざととらずに過ごしてきた。
その方が圧倒的に楽だから。
精神的に楽をする為に、じっくり考えずとも体を動かせることを熱心にするようになった。
特に料理をすること、無心で美味しいものを作り、食べることに、とても助けられた。
その記録を書き留めていこうと思う。
目的はないけれど。
……
外出自粛のゴールデンウィーク、
私たち夫婦はもともと家でのんびり過ごすことは苦ではない。
でも旅行を計画しようとしていた大型連休、のんびり(もとい、だらだら)過ごすのは少しもったいない気がして、コンビニ買い出しゲームをしてみた。
ルールは霜降り明星さんのYouTubeを見てもらうのが早いと思う。
つまり、コンビニで相手が一番好きなモノを(予想して)買ってくる。もう一方も正解として自分の一番好きなモノを購入。全部揃ったところで答え合わせをする。
これを2人分。結果的にほとんど当たらなかったけど楽しかった。から良しとする。
コンビニで買ってきたおにぎりと、おかずになるものと、お茶でお昼ご飯にした。
コンビニのごはんは美味しくて楽だけど、ちょっとしょっぱい。だから、夜ご飯は少し優しいのをたべたいなと思った。
優しいの代表格は圧倒的に「出汁」だ。
……
まず、昆布と鰹節で出汁をしっかり取る。
おいしい出汁パックをもっているけど、多少塩味が強いから自分でとったほうが優しい味になる。キラキラの金色の液体ができたところで、タッパーにおたま二杯分ほどうつす。
しょうゆをほんの少しと砂糖をひとつまみ入れ、おろして水気を切った大根おろしと短冊に切った油揚げ、ざく切りのキャベツを入れてふんわりラップしてレンジでちょっとずつチン。
キャベツがしんなりしたら、粗熱をとって冷蔵庫で冷やす。
これはおつまみ。
少量のごま油で、一口大に切った豚の薄切り肉(ロースが好き)を炒める。(豚肉を炒める前に塩胡椒と酒をふって和えておくと火が通る瞬間にい〜い匂いがする、ということは私が母親から教わった人生において重要なことの一つ。)
色が変わったら厚めの銀杏切りにした大根とにんじんを入れてざっとかき混ぜ、さっきとっただし汁を何がひたひたくらいまで加えて煮る。沸騰したら、太めの斜め切りにした長ネギも加える。そしたら「弱火でコトコト」。
コトコトしてる間に、炊き込みご飯をつくる。冷蔵庫の中を改めて見る。さっき半分使った半端なにんじん、房の三分の一だけ残ったしめじ、油揚げ1枚、細い部分だけ残ったごぼう。完璧すぎるメンバーが残っていてテンションが上がる。油揚げとごぼうを千切り、にんじんは細めの短冊にしておく。米を研いで十分に水を切ったら、炊飯器に米、出汁と醤油と酒とみりん、その上から具材を入れる。炊飯スイッチを押す。
炊飯スイッチを押したら、コトコト煮ていた鍋の火を止める。味噌をいつもより少なめに箸でとっておたまの中で溶かす。そのまましばらく置いて味を染み込ませる。
ご飯が炊ける少し前からもう一度鍋を弱火にかけてコトコトやる。
そうすると、炊き込みご飯と、豚汁、どちらも最高の状態で迎えることができる。
米と、汁物だけの夕飯。
コンビニご飯の日にはちょうど良い優しいダシの味。
……
残りものをぶち込む料理というものを、師匠の1人である母は教えてくれなかったので自分で会得した。
母はレシピ本をこれでもかというほど大量に持っていて、主婦歴が30年にも及ぶというのに未だに新しいレパートリーをレシピ本から探すような人なのだ。昔、私の実家は、曾祖母、祖父母、叔母が3人、両親と2人の兄弟と暮らす11人家族だった。そのせいか母は「絶対に失敗しない料理」しかしない。
だから母は、残りものをなんでもぶち込む料理はしない。私が適当に炊き込みご飯を作っているなんて聞いたら、栗原はるみのレシピ本をもって飛んできそうだ。
最初のおつまみは、dancyuおつまみ特集 平松洋子さんのレシピからインスピレーションを頂きました。
また会いにきてくれるかな
※読みやすいように一部書き直しました
※また一部書き直しました2021/1/13
お久しぶりです。
このブログを書き始めたときは25歳でしたが、
既に27歳になって半年が経とうとしています。
大変久々の投稿になりますが、今回残しておきたいことが起こったので、長めの文章を書いてみました。気持ちのままに書いてしまい、読みづらいかもしれませんが、よかったら読んでください。
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夫との結婚が決まってからの、この一年半については、あまり詳しく書くこともなく、あまりにも平凡でありふれた、でもとても幸せな日々を過ごしてきた。
夫からプロポーズを受けたときに、挙式までの貯金の話をし、おおよそ一年と少しは準備期間が必要だという話になった。
私は一人暮らし用の部屋を契約したばかりだったので、1年くらいは籍を入れずに婚約期間として別々に暮らそうと決めた。
なので実際籍を入れ、同居を開始したのは今年の1月、プロポーズから10ヶ月経ってから。
婚約期間中は、徒歩3分のお互いの家を行き来し(最後の頃には私の家でほとんど同棲をしていましたが…)、狭いシングルベッドに決して細くないお互いの体を寄せ合って寝ていた。
その間に、お互いの実家や家族への挨拶や報告を済ませ、式場を決め、両家の顔合わせをし、結婚への準備をのんびりながらも進めていた。
入籍と同居を今年の1月にしたのは、夫が転職をしたためだ。
夫が社宅を出るタイミングで、籍を入れることで、次の会社で既婚者用の社宅を準備してもらえたので、こだわりの少ない私達は実に実用的な理由で入籍の日を決めた。
もともとお互いが一人暮らしをしていたので、家具家電はどちらかのものを残す形で、ほとんど買わずに済んだのはとてもありがたかった。ベッドもお互いが持っているシングルベッドを2つ合わせても窮屈にならない寝室があり、お互いこれまでの2倍の就寝スペースを手に入れた。
冷蔵庫だけは、ファミリー用の大きいものを新しく買ったが、全体の出費が普通の引っ越しよりもだいぶ安く済んだことに2人で満足した。
同居を開始してからも、私たちは半同棲状態の時となんら変わらず、お互いが当たり前に思いやり愛し合い、その気持ちをストレートに表現することでとても平和な日々を過ごしていた。
挙式は7月末、台風と台風の合間で、幸運なことにびっくりするくらい晴れた日の昼間から行った。
2人とも大きなこだわりは無く、夫の地元の神社で、私たちを祝福してくれる親戚と友人たちに囲まれて挙式と披露宴をし、二次会までしてもらい、この上なく幸せな1日を過ごしたことは、嘘偽りなく一生の宝物になった。
そして先月の頭、新婚旅行に行ってきた。
タイのサムイ島という離島に行き、青い海、白い砂浜を眺めながら、プールに入る、ご飯を食べる、酒を飲む、寝る、セックスをする以外の事を殆どしない、実に贅沢なハネムーンで、こんな時間を共に楽しめる人と結婚して良かったと感じた旅行だった。大雨が昼から夕方まで降った1日を除き快晴だった南の島で、夫がお腹を壊した最終日以外2人とも健康に過ごすことができ、私達はなんと幸運な夫婦なんだろうとこの旅行を平和で安全に遂行したお互いを褒め称えた。
詳しく書くこともなく、と言いながら結構な長さを書いてしまった。
さてここからが今回書きたかったこと。
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今月(11月)に入って少しして、生理が遅れていることに気づき市販の検査薬を試したところ陽性が出た。
いつかできたらいいなと思っていた子どもが出来たことは、私にとってとても嬉しいことで、また夫も戸惑いながらも喜んでくれ、未来への期待にあれこれと想像を膨らませた。
数日後に産婦人科を受診すると、10センチ四方ほどのエコー写真に、1cmもないくらいの、小さくて黒いかたまりが写っており、適当そうなおじさん先生がそれを指しながら「これが赤ちゃんが入ってる袋、この大きさだと5週目くらいで、まだ小さくて心臓が動いてるの確認できないんだよね、また2週間後くらいに来てね」と淡々と話されたので、私もそのときは冷静に、「そんなに小さいんだ…」などと思っていた。
しかし診察室を出て、個室で今後について看護師から説明を受けていると、徐々に実感が湧いてきて、あぁ夫と私の子どもを授かることができたのだ、と心の底から湧いてくる喜びを感じた。しかも、おそらくハネムーンベイビー。あんなに幸せな空間のなかで、授かることができたのだと思うと、私達は本当に幸運な2人だと改めて感じたりした。
心拍確認はまだなものの、産院をどこにするかは2週間後までに決めてきてね、と言われたので、どこがいいかを相談するために実家の両親には電話で報告をした。
両親は、努めて冷静に振る舞っているものの、声や態度からとても喜んでくれているのが伝わってきて、少し涙が出た。夫の両親にもその後夫から報告をし、とても喜んでくれたと聞いた。
きみはそんなに小さいのに、こんなに大きな幸せを、みんなに届けてくれているよ、と、気が早いけど下腹部あたりに話しかけてみたりした。
異変が起きたのは妊娠が発覚して5日後の夕方、会社でトイレに行くとおりものに少量の血が混ざっていることに気づいた。
少しの出血はよくあることとネットでも読んでいたため、あまり心配せずその日は残業して帰り、金曜日だったのもあって疲れ果ててすぐに寝た。
しかし次の日の朝、トイレに行くとおりものシートに、今度は大きく赤い染みがついていた。おや?と思ったものの、その日は土曜日、かかりつけの病院は休みで、他の病院に行くほどでもないかなと月曜日の朝に病院の予約を入れ、安静にして様子を見ることにし、夫と自宅でゆっくりしていた。
しかし、その後出血は止まらず、おりものシートを生理用のナプキンに変えた。トイレに立つ度悪いことばかりが頭をよぎり、私の気分はどんどん暗くなっていった。安静にしていなければと横になっていてもどんどん不安が積もっていった。
夜になっても出血は止まらず、いよいよ流石に出血量が多すぎると思い、日曜日に急患でも診療している婦人科のある病院を探し、夫に付き添ってもらいながら受診しに行った。
ネットで調べていると、既に、この量の出血では、「何か」が起こっている可能性が高いことは何となくわかっていた。
でももしかしたら、「たまにあるんですよ、大丈夫ですよ」と言われるのではないか。そんな期待を持ちながら混んでいる総合病院で順番を待った。
最初に看護師さんから呼ばれ、問診を受けた。出血量、妊娠は初めてか、手術歴は、などのあとに、
「袋状のモノとか塊って出てきた?」
と聞かれた。その時、前日の出血でナプキンについていたものを思い出し、「あぁ、あれがもしかして、」と。
そのときは変なおりもの、と思ってトイレに流した。
あれがもしかして、私たちの子供だったのか。
と、看護師さんの聞き方から、思った。
その瞬間は、冷静に受け止めたつもりだったが、夫の座るベンチに戻り、手を握ってもらった瞬間に、漠然とした辛さが押し寄せて、涙が出た。まだ決まったわけじゃない、まだそうと言われたわけじゃない、と自分に言い聞かせながら、診察の順番を待った。
診察の順番はあっという間にやって来て、まずは尿検査、その後エコー検査という順番に流れていく。
産婦人科の、検査用の椅子に座り、機械入れますねーと言われて冷たい感触が走った。そして先生が、エコーの機械を左右に動かしながらモニターをこちらに見せてくれ、ゆっくり話しかけてきた。
「あのね、多分週数的に見える大きさになってるはずなんだけど、、こないだ見えたっていう赤ちゃんの袋がみえないんだよね…うん」
と先生が言ったまま無言になったので、わたしは無意識に「はい…」と返事し、それが合図みたいになり「あっちで一度お話ししましょうね」とエコー診察が終わった。
診察室に戻り、エコー写真をみせられた。何も写っていない白黒の影だけの写真。
先生はとても優しい声で喋りはじめた。
「あのね、すごく残念だけど、出血量とエコーで見ると、流れてしまっている可能性が高いと思います。この段階でのね、流産は、化学流産といって、ほんとどうしょうもないの。エコーでもちょっと袋が確認できないから…でも、今回急患なので、かかりつけの産婦人科でもう一度見てもらってね、エコーの機能とかも違いがあるし、早めに見てもらってね。今日は安静にして。旦那さんもいいですか?流産の可能性が高いです。今日1日は横になって寝て安静にしてね。」
先生はほんとうに優しい声で、私たちにそう言った。
途中からは涙が溢れてしまい、前を向けなくなったわたしに、脇から看護師さんがティッシュをくれた。
診察室を出てからも全然涙が止まらなかった。
こんなにも体が引きちぎられそうな悲しさは初めてだと思った。
本当に、妊娠しているとわかってから数日間だった。
これが何週間も経ってから起こる方もいるし、その方が辛いと言われたらそれはそうだと思う。でも、ほんの数日でも想いを寄せた多くの未来が一瞬で消えてしまったような気持ちに、私は参ってしまい、油断をすると涙が溢れてきて、夫は隣でわたしの手をさすったり、背中をさすったり、多分なんと声をかけていいか分からずに無言で、ずいぶんとオロオロさせてしまった。泣いてばかりでお会計もできない状態だったので夫が代わりに行ってくれた。
そのあと、少し歩きたくなり夫に手を繋いでもらいながら知らない街を一駅分散歩をして電車に乗った。夫の手の温かさがありがたかった。
悲しいときには、お腹いっぱい温かいものを食べる、と経験から決めていて、夫にワガママを言いはなまるうどんで温かいうどんと、おでんと、コロッケを食べた。
やっぱりこの方法はテキメンで、食べているとスっと涙がひいていった。
でも、店を出てしばらくするとまた悲しい気持ちが襲ってきて、結局夫に背中をさすられながら街中を歩いた。夫は何も言わなかった。実際夫がどれくらいショックを受けているか分からないけれど、こんな時に黙って背中をさすってくれる人と結婚してよかったと思った。とても優しいと思った。
妊娠が分かってから、たくさん、たくさん未来を想像して、その中では確かに私たちにたくさんの幸せを届けてくれたわたしたちのこども。
まだ心臓の動きさえ見えないほど小さかったけど、確かに私たちの間に、数日だけだったけど、存在してくれた。
ありがとう、って思う(と涙が出る)
一方で、何が悪かったんだろう、何か私に責任があるのではないか、わたしがちゃんとしてなかったからじゃないか、と自分を責める気持ちがどうしてもでてきてしまう。
夫も君のせいじゃないよ、と言ってくれる。
実際、妊娠初期の流産は一定割合で起こる染色体異常によるものがほとんどで。受精の瞬間に決まっていた流産の運命は、母親に影響されるものではないのだ。自分を責めることなんてない、と思いながらも、何か理由を探さないとやってられないみたいな気持ちになっていた。しょうがないなんて、悲しすぎる。
その夜、夫の両親から電話がかかってきて、安産祈願で有名な神社にお参りしてきたのよ、悪阻が辛かったら息子を頼ってねと言ってくれた。
まだ、主治医の先生に診てもらっていないので報告はしないでおこうと思っていたので、「まだ妊娠している体」でお話をした。
「そうなんです、ちょっと悪阻の症状があって、でも大丈夫です、お正月はご挨拶に行きます、ありがとうございます」と。
電話でよかった、と思った。だって、笑いながら話しているのに、涙が止まらなくなってしまったのだ。
こんなに喜んでくれてるのに、明日には残念な報告をしなければならないのが本当に辛くて申し訳なかった。
月曜日の今日、主治医の先生に診てもらい、確定的な言い方で「流産です」と告げられた。悲しくて仕方ながなくてずっと涙が溢れて止まらなくて、遠回りして職場に向かった。
なんとか泣き止んで、気持ちを入れ替えて仕事に集中しようといつも通り出勤したけれど、どうしたってぼうっとして次の瞬間には涙が出てきてしまい、事情は知らないけど体調が悪そうなのを心配した同僚たちにも帰りなさい、と言われ帰路についている。
夫や両親に報告すると、まず一番にわたしの体調を気遣ってくれ、できるなら仕事を休んだ方がいいと言ってくれた。こうして思いやってくれる人がいてほんとうに有り難いと思う。わたしは本当に幸運だ。
夫との間に、子どもがいてもいなくても私達は楽しく幸せに、幸運だと感じる人生を過ごしていくだろうと思っていた。お互いの両親も、無神経にプレッシャーをかけてくるような人たちじゃない。
それは今でもそうだけど、一度こんな経験をしてしまうと、また会いたい、また訪れて欲しいと思ってしまう。
無理に子どもが欲しいとは思わないけど、
出来ることなら、また会いにきて欲しい。
※ここ数日で起こったことを、書き殴ってしまい、とても見づらい文章になってしまい申し訳ないです。これはわたしの感じたことの備忘録として書きました。
何も役に立つことは書いてないけど、誰かに読んでもらうことでわたしの気持ちの供養にしたいとおもいます
少しずつ
こんにちは。
先日3月2日はすごい暴風だったけど、彼氏と付き合って三年目の記念日だったのでデートをしてきた。
と言っても、夕方まではわたしの引越しに当たって家電を買い揃えに家電屋さんデート。
冷蔵庫や洗濯機を買い(この日の私は冴えていて、およそ30分で冷蔵庫・洗濯機・オーブンレンジ・テレビを次々と決断して行ったんだけど、どれもベストチョイスだった)
ホワイトデーにテレビを買って貰う約束をしていたので、1万7千円の中古テレビ32型は彼氏に買ってもらった。
バレンタインはわたしが冷凍の作り置きおかずを大量に作ってあげたのだけど、私たちのバレンタイン・ホワイトデーの贈り物は年々実用寄りになってきている。
この私が作った冷凍食品たちは本当に美味しい。まあそんなことはどうでもいいんですが…
家電屋デートの後、街に出て、新居で使う器の下見に雑貨屋をまわった。
私も彼氏も大学では陶芸部員だったので、陶器を見ているだけで時間が潰せてしまう。
私たちは二人とも、食べることも好きだから、二人の食事をイメージしながら器を選ぶ。これはこういう料理に使えそうだね、綺麗な色だね、ここのカーブがきれいだね、などと話しながら器をみる。
結局1枚も買わずに2時間弱陶器を物色していたけど、そういう時間がすごく好きだ。
そのあとは、私が希望した、ちょっと良い居酒屋にご飯を食べに。
会社か何かの大人数の飲み会が行われていて、そんなに広くない店内は想像よりガヤガヤしていたけど、希望通り一面ガラス張りの窓の近くの席に通してもらえたし、何より出てくる料理が全て美味しかったので全然オッケーだった。
馬刺しがうまい…日本酒もうまい。
記念日なので少し思い出話なんかもしながら、美味しいね〜〜ってご飯を食べて、お酒を飲んで、ちょっと良い気分になっちゃったりして、すごく平和な時間だった。
ひと通りお腹いっぱいになったところで、少し静かなところに行きたいな〜と思ったのと(まだ大人数の宴会は続いていた)、実は彼氏より酒の強い私は少し飲み足りなかったので、近くの気になっていたショットバーへ行くことにした。
白ヒゲを蓄えたスマートなマスターと、落ち着いた雰囲気のおばさまがカウンターに立っていた。夫婦なのか雰囲気が似ている。
静かなジャズが流れ、漆塗りのような深い色のカウンターがつやつやと輝いていた。お客は私たちしかいなかったので遠慮なくカウンターに座った。
一杯目から私は、好きなギムレットを頼み、彼氏は少し甘めでアルコール控えめのカクテルを頼んだ。
ギムレットという言葉は「錐(きり)」という意味らしく、オシャレだけど可愛くないカクテルだな…と思いながらも飲み干す。
良い感じで酔いが回ってきたので、次はウィスキーをロックでお願いすると、珍しく彼氏もウィスキーロックを頼む。
「珍しいね」と言うと「そう?たまに飲むよ」と言った。
3年付き合っても知らない面というのはあるし、次々に生まれていく。
今まで好きになった人は、心の裏も表も、耳の後ろの匂いも足の裏の形状も、昔の女も小さい頃おねしょをしていた時期も全て知りたいと思っていたけど、不思議と今の彼氏にそういう思いは抱かない。
知らないことがどんなにあっても、今私に見せてくれている彼を安心して愛せる。それは多分彼を信頼しているからなんだろうと思う。
お会計をして、席を立とうとすると、彼が何やらモゾモゾ言いながら小さい箱をカウンターに置いた。
開けてみて、と言われリボンをほどく、箱を開ける。
ほんとは箱を置かれた時から何となく中身は気づいていたんだけど、まさかこのタイミングで(お会計後!)くると思わず、混乱して、手が震え、そして箱を開けた時のダイヤの輝きに涙腺がやられてしまった。
彼が「結婚してください」と言う時には既に号泣していた。
ということで…
婚約しました〜〜〜〜!!!!!
今年に入ってまだ3ヶ月経ってないけど、試験に受かり、転職が決まり、引越しが決まり、そして婚約…と変化の3ヶ月でした…めまぐるしい…
なんだか現実感がなくて、帰り道に10回くらい、「ほんとうにケッコンするの?」と聞いた。彼は毎回苦笑いして「しようよ」と言っていて、ああこの人と結婚するんだな〜〜と何となく幸せな気持ちになったりした。
とりあえずゼクシィを買ったら、こんなことが自分の身に起こるなんて想像できず、毎日現実と夢の狭間にいるみたいな毎日だ。
とりあえず、お互い親に報告し、どちらも喜んでくれたので良かった。
また何かあったら報告させてください…
自分ごとのウェディングソングは違って聴こえるな…
この半年間の話。
ご無沙汰しております。それか初めまして。
昨年の春くらいから書き始めたこのブログを8月半ばくらいでやめてしまっていた。
理由は単純で、文章を書くということは私にとって少しエネルギーを使うことだったので。余裕がある時に書こう、と思っていたらどんどん余裕がなくなってしまって、ついに半年くらいの時間が経ってしまった。
待ってくれてる人はいないかもしれないけど、もともと自分のために始めたブログだったし、また自分のためにポツポツと始められたらなと思う。
半年前の話から始める。少し長くなるかもしれないけど聞いてくれたら嬉しいな。
半年前、資格試験、はっきり言うと行政書士という資格取得のための勉強をしていた。
11月12日の試験まで3ヶ月を切ったとき、つまりこのブログの最後の更新をした頃、模試の点数が全然合格基準点に足りていなかった。全然ダメってわけではないけど、確実に落ちるくらいダメ。
私はどうしても今年の試験で一発合格をしたかった。
とにかく前に進みたかった。
自分の努力不足で二の足を踏むわけにはいかなかった。
仕事も量を少しセーブしてもらい、大学受験以来のガリ勉をした。
朝起きてまず勉強し、寝る前にも勉強をした。だいたい4〜6時間くらい、毎日勉強した。
何回やっても知識が定着しないヘナチョコな脳みそが、ビジー状態で爆発しそうだった。
と言っても、たまに寝坊してしまったり、我慢出来ずにお酒を飲んでしまったりしたから、死ぬ気で頑張ったとは言えないかもしれない。
でも、試験が終わったあと、少し泣いてしまうくらいは頑張った。
今まで自分に甘々で生きてきたから、自分にプレッシャーをかけるのに慣れていなくてとても辛かった。
彼氏とも会えないし、なんなら少し気持ちもすれ違ってしまっていて、全然気持ちがだめだった。
ずっと家の中にいて同じ人とばかり接している閉塞感に気が狂いそうだった。
試験が終わって改めて振り返ると、そんなふうに辛さを微分できるんだけど、ガリ勉している時は、何がどう辛いのかも分からなくて、ただ漠然とした辛さが背中にのしかかっていた気がする。
ただ、ガリ勉をしている時でも辛さに負けないように自分をちょいちょい甘やかしたりしていて、缶ビールを夜中にこっそり飲んだし、コンビニでこれでもかとアイスやお菓子を買ってお手軽に豪遊気分を味わったし、爪を真っ赤に塗ったりした。
こっそり飲んだ缶ビール
コンビニで買って食べた、夜のアイス
試験前日に真っ赤に塗った爪
そうやって乗り越えた試験を終え、コンビニでペットボトルのお茶を選びながらふと、結果がわかる1月末まで、何をしようかな、と思った時。
すぐに、転職活動をしよう、と思った。
試験に受かっても受かってなくても、外で働こう。
私は自分に甘いので、自分が辛い状況にいてその理由もわかっているのに抜け出さない選択肢はなかった。
外で働くこと。
実家を出ること。
そして外から実家を支えることが、自分を犠牲にせずにできる精一杯の親孝行だという私の結論だ。
美味しい蕎麦と日本酒を嗜みながら、穏やかに両親と話し合い、何とか了承を得た。
けど親に「実家にいることが辛い」なんてとてもじゃないけど言えなかった。いくつになっても嘘ばかり並べる娘で申し訳ない。
さて。
就職活動の前に、彼氏と台湾旅行に行った。
台北と、南端の墾丁というリゾート地へ行ったんだけど、本当に台湾は最高だった。
美味しいものを食べ、口に合わないものを食べてしまって笑い、中国語に首をひねり、言葉の通じない異国人の優しさに感動し、少し喧嘩もして、存分に2人でいる時間を楽しんだ。
台湾旅行の少し前、
彼氏に「デパートに指輪を見に行こう」と言われたんだけど、 よく分からなくてクリスマスプレゼントだよねって言ったらそういうことになってしまった。
でもデパートで見たのは確実に婚約指輪で、少しドキドキした。
もう少し先になるのかな。
私は、あまりジュエリーに詳しくないのですが、京都発の「俄-NIWAKA-」というジュエリーブランドが、コンセプトやデザインがめちゃくちゃ好みだということをたまたま知っていたので、彼氏に「婚約指輪を買うときはここにしてね」と言っておいた。
俄 NIWAKA | 京都のジュエラー ハイジュエリー ジュエリー
多分サプライズとかはできない人だから、買う前に私に確認するとは思うんだけど。
最近、いろんな理由で婚約指輪はいらないという人も周りに増えていて、指輪ではないものを代わりに買ったりしているけど、私はやっぱり指輪が欲しい。
指輪って、私は着けるととても安心する。一本だけ、指を囲ってもらっていると、お守りみたいに心が落ち着く。私にとって彼氏は多分そういう人だから。
そういう気持ちで一緒にいることを覚えていたいから、指輪が欲しい。
話がずれました。結局クリスマスには、自分好みのファッションリングを自分で選んで、プレゼントしてもらった。
とても気に入っていて、デートによくつけていく。
これで充分なのかもしれないな、なんて思うけれど、やっぱり婚約指輪は欲しい。
そして年末が来た頃、転職サイトに幾つか登録した。
自分がどういう環境でどういう仕事がしたいのか、将来どう働いて行くのか、全然わかんないなりに考えた。
将来のことというのは、基本的にケセラセラの気持ちで生きてきたけれど、真剣に考えていれば「あ〜こうなりたいかもな、じゃあこうしたほうがいいのかな、やってみようかな」というのが出てくるもので、だんだん行きたい会社というのが出てくるようになった。
年明けくらいの頃だ。
初めてリクルートスーツ以外のスーツを買い、何社か面接に行き、3社に内定をもらった。
最後に受けたのが第一希望の会社だったのだけど、受ける段階ではまだ第二希望と迷う部分があって、内定を頂いてから考えようと思っていた。
最終面接の後5分ほど待たされ、帰ってきた統括部長に「じゃあ内定出します」と言われた。
「一回持ち帰って考えてもいいけど、どうする?」と聞かれて3秒迷った。
でも、白髪交じりでベリーショートの、声の通る、自分に自信があって明るくてかっこいい女性の部長だったから、その場で内定承諾書に目を通しサインをした。
私の人生はやはりどこか衝動的で、そういう自分の人生の決め方が好きだ。
もちろん、いつも良い方に転んでいる訳ではないんだけど。
そしてその内定と同時くらいに、資格試験の結果が出た。
自己採点ではギリギリ。合格点に届いているかどうか微妙なラインだった。(記述問題が複数あり、その点数は読めない)
7年前、第一志望の大学の合格発表がフラッシュバックした。
自動音声に電話をかけるタイプの合格発表で、「残念ながら...」という電子的な女性の声が、脳みその中にこだまするのを今も思い出す。
布団の中で午前中いっぱい、たくさん泣いて、昼にご飯をたくさん食べた。そして親に第二志望の大学に入学することを話した。
その大学で今の彼氏と出会い、多くの友人や先生に恵まれ、この大学に入って良かったと思いながら卒業を迎えた。
よし、大丈夫。と思いながら、ネットを開いた。
合格者受験番号の中に、私の番号があった。
いつも私は、目標の少し下にしか到達できないのかと思っていた。
受験も、就活も、目標を掴める努力ができないことを、「努力が下手だ」という言い訳で(でも実際下手だと思う)、誤魔化していた。
今回、私は目標を掴めた。それは自分にとって、努力できたという大きな自信になったと思う。
人から見て努力しているとか、
自分で自分を努力していると評する時にいう努力も、勿論努力であることに変わりはないんだけど。
ただ、目標を達成した時に得る「努力」の感触は、そのどれよりも確かではないかと思う。
わたしは努力の確かな感触を感じた。
でもやっぱり努力は下手だと思うけど、努力な下手な人間なりに努力とうまく付き合って行きたい。
最近は1人で暮らす部屋探しをしていた。
とてもいい部屋に決めたのだけど、彼氏の家から徒歩1分くらいのところになってしまった。
「今からコーヒー淹れるんだけど飲みに来ない?」という口実で家に呼べてしまうな。
部屋探しのオタクなので、次の記事は部屋探しについて素人の私が語る記事にします。
では、ご静聴ありがとうございました。
またボチボチ書いていけたらと思います。
今回の受験勉強でずっと聞いていた曲
大学受験の時にずっと聞いていた曲
トラウマと言うには足りぬ話
8月も下旬にさしかかって思うことは、8月が全然8月っぽくなかった。
こんなこと8月に言ったら、「わたしらしいって何?!どんな私でも私は私だよ!」とか言いそうー。なんちゃって。
つまり、仙台、ずっと寒いままでした。
暑い〜って全然言わなかった。
やる気が出ないのを暑さのせいにできなかった。
その代わり、じめっとしていて、なんだかやる気が出なかったけど。
来月は、残暑がすごいのだろうか…
野菜とか、良いものが出回らない上に高騰しそうだなぁ、大丈夫かなぁ、農家の皆さんご苦労様です、
そういえば。
低気圧のせいかわかんないんだけど、ここのところあんまり気分の良くない夢を見る。
こないだは、東京OL時代にとてもお世話になった先輩(よく怒鳴られていた)が出て来て、何かわからないけどずっと怒鳴られていて、どんどん辛くなっていく夢だった。
まぁ、夢から覚めたら大したことないんだけど。
こういう夢をたまに見る。
前の記事(仕事を辞めた話 - ピンクとキラキラ)で書いた事は嘘じゃないし、本当に先輩のことを尊敬していたし、今後もずっと忘れられない先輩だと思うんだけど。
そして、仕事を辞めると決めたのは、その仕事が嫌になったからとか、先輩が嫌になったからではないんだけど。
でも、どっかで、どんどん疲弊している自分がいたのだと、今では素直に認められる。
夜中3時に怒鳴られること、
24時間以上起き続けることを前提にしたスケジュール、
自分の体を後回しにすること、
無茶苦茶な予算ぐり、
専門的な知識を経験で詰め込まなければならないこと、
莫大な大事なことがどんどん流れていってしまう会議も、
疲れていたんだなと思う。
一年目の時に、取引先から120万円でもらった見積もりを、60万円に値切れと言われた。
人件費、機材費、ハコ代、どう考えても半額じゃ採算がとれないことは自明だった。
今後もそこに仕事を回すこと、今回もなるべく最小限のエネルギーしか使わないことを約束してなんとか55万-85万にまで、交渉のベースをもっていった。
こちらは60万に持っていくために、50万からスタートしている。向こうは、最初の値切れて100万、から85万まで下げてくれているのだ。
向こうの営業も、わたしも半泣きで、「ここがうちでも限界」と「こちらも頑張るからもう少し下げてくれ」の応酬を何度もして、最終的に税込80万でなんとか、と言われ、もはや限界を感じて上司に相談した。めちゃくちゃ怒鳴られた。
60万っつったらそれ以上はありえねぇんだよ、この予算で20万のプラスどうにかなると思ってんのか。甘い交渉してんじゃねえぞ。
と言われた。
いったん自分で予算書を見直して
「ここと、ここと、ここを削ってどうにか10万捻出して、あと10万は全体的に細々削るとかでどうにか…」と改めて相談すると、色々ダメ出しはされたけどどうにか最低目標利益率ギリギリのラインを守れそうなところまで目処がついたのでよかったけれど。
そういうことが、何度かあった。
あと、エキストラ会社にエキストラを頼む際、通常¥10000/1day拘束、交通費別、などと会社ごとに最低ラインが決まっている。それをわかって、¥8000/1dayでお願いします、と毎回電話するので、最早迷惑業者並みだった気がする。決まり文句は「今回、予算がない仕事で…」。
予算がない仕事じゃなかったことがない。
もちろん広告の全てがそうじゃない、お金のある仕事はきちんと支払える。わたしの担当する広告が、お金がないものばかりだったのだ。
そこをなんとか…と毎回電話口で頭を下げた。
泣きそうになりながら、先輩に怒鳴られながら相談しつつ、電話口では「お金が厳しくて…そこをなんとか…」って繰り返した。
もっとうまく交渉できたらよかったんだろうか、なんて考えてしまう。
そういうことに、疲れていたんだと思う。
辞めるとき、やめた直後は、「私は仕事が辛くて頑張れなくなってやめたんじゃない、自分で別の道を歩むことを決めて辞めるのだ」と思っていた。
社長が「うちを辞めるのなら、頑張れなくて挫けて辞めるのではなく、別な目標を持ってやめてほしい」と言っていたのを聞いて、「そうだな」と思っていた。
確かに私は別な目標を見つけて辞めた。
でもそれが100%かと言われたら違うと、今なら言える。
前は、ただの「辛くて辞めた新人」になりたくなくて、そういう変なプライドがあって、言えなかった。
でも、結局あそこはやっぱり異常なところだったのだから、疲弊して辞めてもなんのプライドも傷つかない。
あの働き方改革から程遠い労働場は、今後もしばらく改善されることはないと思う。諸問題は、クライアント、代理店、制作会社、そして技術スタッフなどたくさんの問題が複雑に絡み合って発生しているから。
ただ、そういう働き方を求める人もいるし、やりがいの搾取を自ら望む人もいる。他をかなぐり捨ててもあの職に就きたいひとがいる。それは自由だけれども。
でも、こういう労働場にいる人は、下の人に「辛いからって辞めるな」とは言っちゃいけない。そりゃ、辛いことの先に素晴らしい世界が待ってることもある。目標を持って進んでいれば、自ずとその先が拓けてくることもある。それは、他人に教えてはもらっても、強要されることじゃないと思う。
私は、疲弊して辞めたのだ。
目標を持ってやっていたけど、前が見れなくなった。
次の目標に逃げたのかもしれない。
その目標は、後付けだったかもしれない。
それでも、わたしはあれ以上あそこにいれなかった。
それでいい。
ながくなってしまった。
先輩に怒鳴られる夢を今でもみる。
トラウマみたいで先輩には悪いけど、こんな涼しい8月に背中にどっしり汗をかいて目覚めるくらいには、嫌な思い出だ。
ごめんね先輩。
きのう、彼氏がカズノリイケダのケーキを買ってきてくれていた。
こんなこと滅多にないので、やましいことでもあるのかと聞くと、
「これ以上痩せられても困るなと思って」
と言われ、全然痩せてないけど食べた。
しゃぶしゃぶをたらふく食ったあとにケーキを食べた。
そして夢も見ずぐっすり寝た。
よき。