弄られキャラの謀反
前職で、取締役のオジさんに言われた言葉で忘れられないものがある。
「お前はケツが立派だから、20人でも30人でも子どもが産めそうだな!」
いわゆるセクハラであるな。
と私は感じたんだけども、みなさんはどうなんだろうか。
決して私を不快な気持ちにさせたり、戸惑わせたりして楽しもうという意図がないシチュエーションではあったものの、(そもそもそういう意図があったらそれは、セクハラではなくただの嫌がらせだ)、その想像力の無さにゲンナリする。
わたしは、「あはは〜、任せてください!」と言う。だいたい60〜75点くらいの返しではないだろうか。
しかし、ケツが大きいのが事実だとしても、(実際私の下着のサイズはLである)
体の特徴について大声で言われることが、平気ではあるけれど嫌だし、その「キツイ冗談をいかにうまく返せるか」を試そうという感覚はもっと嫌だ。
その私の「嫌さ」をなんとなくわかりながら、想像を怠り、「自分が主張したい何か」を優先させるのは、もはやメディアコンテンツを作る仕事をしているものにとって致命的のように感じる。と言うのは言い過ぎか…
ふと、大学で社会学を勉強していて、敬愛する奥村隆教授がゼミの教材として使用した「ハゲを生きる」を思い出す。
この中で、「人格のテスト」という理論が引用されている。
ざっくり言うと、ハゲの人がハゲをからかわれるということは、ゲーム理論的な、「人格」を試されるテスト、というわけで。
ハゲの人は、ハゲ(身体的特徴)をからかわれることを、たいていの場合「嫌だ」と感じている(自覚的にせよ、無自覚にせよ)けれど、からかう方は多くの場合、「弄り=ある種の遊び」の感覚で、悪意はない。
それに対して、嫌だと感じるからといって、無視したり怒りだしたりすれば、からかいというある種の「遊び」のルールを破ることになる。
からかいという「遊び」は、鬼ごっこなどのように、そこにコミュニケーションの型(=ルール)をある程度想定しているからである。
その型をはみだすと、遊びであることは暗黙の了解のはずであったから、相手を困惑させ、または怒らせ、もしくは失望させてしまう。つまり、人格のテストに合格できないということである。
まあ、これはざっくりであって、実際は本を読んで欲しいんですけど。
つまりは、先述のセクハラ発言には「人格のテスト」の要素が含まれている気がするんです。
上司は、私と「遊び」のコミュニケーションを想定していたんでしょう、きっと。私の返答が上司にとって面白い(高得点)であればあるほど、将棋で想定外の上手い一手を刺された時に興奮するのと同じで、嬉しくなるんでしょう。
そういうコミュニケーション、多いですよね。
わたしも、ブスとかデブとか顔がテカってるとか言われても笑っていられましたよ。
でも、たとえそれくらい平気、という人でさえ、それを言われる人やタイミングや頻度や状況や…いろんなことが重なって無理!ってなってしまうこともありますよね。ね。
遊びの範囲で、それを上手く返して、かわして、笑っていれば、人間関係の潤滑油になることも多いんだけれども。むしろそれを利用して生きてきた感もあるんだけども。
加減が分かってない人もいて、笑いながらズタボロになってしまうこともありますよね。
これはチャンバラだって言いながら、本物のナイフ振り回してるようなもんですからね。
私は、そこの頑丈さみたいなのを売りにしている部分があって。
みんな、そんなに気を使わなくていいですよ、頑丈なので、思いっきり遊びましょ、と。
女性でも多いですよね、それを売りというか、武器にして生きている人たち。
でも、それでいざ遊んでいたら自分のキャパ以上に傷つけられてしまうことがあれば、すべて自業自得なのでしょうか。
自分で蒔いた種だし、そうかも知れないけれど、じゃあせめて、耐える義務はないよな、と思うのです。
泣いていいし、逃げていい。
それで気づく人は気づくし
本当に限界がきたらその人間関係を捨てる勇気を持とう、と思う。
芸能人で、それを仕事にしている人たち、すごいなと思います。
きっとたくさん傷ついている人だっているはずだなぁ、とバラエティなど見ていて思います。
でも、それは、自分が傷ついたこととは何ら関係ないし。
もっと言ってしまえば、芸能人と違って、わたしたちはそれでお金もらってないし!なんてね
あとは、自分を傷つけた人と同じ過ちを犯さぬよう…
結局、そういう「遊び」のコミュニケーションが平和に成立するのは、他の種類のコミュニケーションも充実しているからこそ、とも言えるのではと思うんですよ。
相手の気持ちを想像し、慮ることを怠らぬようにしたいものですね…
えらそうに、長々とすみません